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1: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:41:58 ID:uhMYjnR5

『 武器、なぜ捨てた』
 
◇米機密文書に中尉の名--「看護婦と壕の中に」
 
その写真には、男女の名前とともに米軍による短い説明が添えられている。
「彼は武器を投げ出し『戦うことに疲れた。結婚したい』と投降した--」
 
1945年4月、激戦の沖縄。原版のフィルムは米国立公文書館に残る。
米雑誌ライフも「沖縄の愛の物語」と紹介した有名な1枚。

だが、まつわる記録はほとんどない。

ある戦史家は「結婚そのものが米軍の演出ではないか」と言った。
被写体の「日本軍中尉」と「花嫁」は実在するのか。
なぜ米兵に囲まれた「結婚式」なのか。私は真実を知りたかった。
2: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:44:26 ID:uhMYjnR5

内閣府の「沖縄戦関係資料閲覧室」で手がかりを見つけた。
「CONFIDENTIAL(機密)」と印刷された米軍の「戦争捕虜尋問報告書」。
その中に「K」という将校の名があった。
 
地位-中尉。年齢-28歳。
逮捕時の状況-投降するつもりで看護婦とともに壕(ごう)の中にいた。
所属部隊-独立歩兵第11大隊。職務-機関銃中隊長。

しかし、どこの誰かは特定できない。
写真を見てもらいたい人が京都にいた。
宇治市に暮らす元伍長、前川清一さん(83)は
その11大隊の数少ない生存者だ。
 
「これは確かにK中尉です。部隊が前線の陣地から後方に下がるときに、
ひとり、逆の方へ行ってしもうた。そう伝え聞きました」。
意外に落ち着いた口ぶりだった。
 
--その場面を目撃した人はいますか?
直属の部下なら……。機関銃中隊は生存者がいないかもしれませんなあ。

3: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:45:47 ID:uhMYjnR5

--将校の投降はまれでしたか?
捕虜になるなら自決せえ。そう教育されてますやろ。
米兵は捕虜を殺すと私も信じてましたな。
 
前川さんの任務は砲兵への弾薬の補給。
夜陰にまぎれて運び、昼は防空壕に隠れた。
米軍は壕の上から穴を掘り、重油を流し込んで火を放つ。
日本兵はそれを「馬乗り」と呼んで恐れた。
11大隊の約1200人のうち1000人以上が戦死したという。
 
「戦争は終わったんやから戦友会に来ませんかと、連絡してましたんやけど」。
中尉から返事は一度もなかった。
 
京都でもう一人、11大隊の元伍長(85)に会った。
沖縄に派遣される前、中国に駐屯したころの記憶が鮮明に残っている。
 
戦闘で機関銃を陣地に残して逃げた時のことだ。
中尉に報告するとしっ責されるどころか、こう言われた。
「いやいや。生きていてくれたら、それに越したことはない」

4: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:47:05 ID:uhMYjnR5
 
米軍の捕虜調書はK中尉をこう記している。
<彼は平均以上の知性をもち、高い教育を受けている。
彼はアメリカとアメリカ人について知識をもっている。
そうでなければ、彼は投降しなかっただろう>

沖縄は23日、慰霊の日を迎える。
写真の真相は封印されたまま60年の歳月が流れた。
激戦のさなかに何があったのか。
それをたどることで、戦争が人に強いる苦しみや悲しみを伝えられないか。

中尉率いる機関銃中隊の生存者がいると聞いた。

私は沖縄へたった。

5: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:49:42 ID:uhMYjnR5

『部下の訪問』

 ◇立派な中隊長が--姿消した後、部隊全滅

米軍が残した沖縄戦の写真
「戦場の結婚式」のK中尉は、約110人の兵を率いていた。
沖縄守備軍・第62師団独立歩兵第11大隊機関銃中隊長。
直属の部下が沖縄で健在だった。

島袋京蔵さん(79)。元1等兵。
「あの写真のビラさえ見なければ、私にとっては立派な中隊長でした」。
感情を抑え、語り始めた。

6: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:50:47 ID:uhMYjnR5
 
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。
中部の最前線に配置された11大隊は5日ごろ戦闘に入る。
隊は下旬までに兵力が半減し、浦添村(現・浦添市)の前田高地に転進した。

前田高地は守備軍の司令部がある首里城を見下ろす要衝だ。
頂上の争奪戦は凄惨(せいさん)な白兵戦になる。
K中尉が姿を消したのは、そのころだったという。

5月初め、米軍の偵察機が高地の上空からまいたビラを拾った。
投降を呼びかける日本語と、牧師役の米兵を前にした日本人の男女の写真。

「捕虜に友好的な米軍」の宣伝と一目でわかった。
男はなんと中隊長だった。部下を殴らないその人を尊敬していた。

指揮官が捕虜になった中隊の兵士は別の部隊に分散され、
消耗品のように「斬(き)り込み」を命じられた。
夜中敵に近づき、肉弾攻撃を仕掛ける。
10人行けば帰ってこられるのは1人か2人しかいなかった。

7: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:51:26 ID:uhMYjnR5
 
島袋さんは右足を撃たれた。
戦力にならなくなると、衛生兵から自決用の手りゅう弾を渡された。
恐怖はない。「先に逝った方が楽」と感じるようになっていた。
「まだ働け」。親しい上官に手りゅう弾を取り上げられた。

戦後まもなくK中尉の宿舎を訪ねた。
大阪の大学で英語を学んだ中尉は、沖縄に設立された
米軍直轄の外国語学校の教員になっていた。

「中隊長殿」。精いっぱい抗議の気持ちをこめ、中隊の全滅を伝えた。
「あなたがいなくなって、みんな亡くなりましたよ」

「飲まないか」。
勧められた泡盛を断った。返事はない。顔が「すまない」と言った。

島袋さんは一度だけ、戦友の実家を訪ねて線香をあげたことがある。
遺族の言葉が耳から離れない。「あの子は、まじめだから戦死したんです」。
以後、戦死者の家を訪問していない。

「私も中隊長も生き延びた。それでよかったのではないか」

8: エリート街道さん 2005/07/22(金) 11:52:54 ID:uhMYjnR5
 
島袋さんと一緒に前田高地を歩いた。
戦友の呉屋定功(ごやていこう)さん(78)も来た。
2人とも戦後ここに来るのは初めてだった。

口数が少なくなった。「木は一本もなかったね。焼き尽くされて」。
呉屋さんの言葉に島袋さんが答えた。
「ここ、戦場だったのか。不思議な感じがする」。
倒れた戦友を起こそうとする夢を今も見る。

デイゴやガジュマルが青々と茂り、モンシロチョウが舞う。
その羽音が聞こえそうなほど、静かな風景だった。

10: エリート街道さん 2005/07/22(金) 12:13:44 ID:1yW/4Fvl

しかし、この国の政府って今も昔も
        国民の命を完璧軽視してるよな。

11: 1 2005/07/22(金) 14:10:48 ID:uhMYjnR5

>>10

レスサンクス

某地方版には「貿易の傍ら英語を勉強」ってなってたので
市大か関大かもこの中尉。

で、俺はこれを読んで怒りを禁じえなかったけどね。
部下はどうでもいいのか?! とか、
内地の家族はどうでもいいのか?!って。

12: 地底理系@暇 2005/07/22(金) 14:35:25 ID:aQ3LKMUk

部下を殴らないってことは、当時の教育に洗脳されなかったんだろうな。

極限状態での人の気持ちなんて常人にはわからないよ。

疲れ果てての選択だと思う。
個人的には、死ぬ方が簡単な選択だと思うけどね。

13: エリート街道さん 2005/07/22(金) 20:29:05 ID:uhMYjnR5

ageとこう

引用元:ある大卒中尉の沖縄戦