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1: ◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★ 2015/04/08(水) 15:18:45.64 ID:???

先の大戦で日米の激戦地となった
パラオ共和国ペリリュー島。5日、11年ぶりに同島入りした
村井正巳さん(79)=盛岡市=は、
同島守備隊の英霊がまつられた慰霊碑「みたま」などが建つ
北部の共同墓苑(ぼえん)で静かに手を合わせた。

5年前にがんの手術を受けたが、
天皇、皇后両陛下のご慰問を知って駆けつけた。
「おやじも涙を流すでしょう」。補給を絶たれつつも奮戦した陸軍少将の父、
権治郎さんを思い、碑に故郷の水をかけ、好物の南部せんべいを供えた。

久しぶりに見た慰霊碑に「きれいなままですね」と、村井さんがつぶやく。
昭和47年に建立されてからすでに40年以上がたつが、
周りの雑草はきれいに刈り取られて清掃も行き届き、碑は輝きを保っている。

思い出すのは、過去3度の訪問で温かく迎えてくれた島の元酋長(しゅうちょう)、
トヨミ・オキヤマさんと、夫のシゲオ・テオンさんだ。
なかなか訪島できない遺族らにトヨミさんらは
「私たちはみなさんの家族。死ぬまでしっかりお墓を守ります」と語っていたという。

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シゲオさんとトヨミさんを、
日本側関係者は親しみを込め「パラオの父、母」と呼んだ。
3千キロも離れた異郷で眠る大切な人を思う戦友や遺族らに代わり、
「墓守」として慰霊碑の維持・管理を担ってきた。

トヨミさんは父が八丈島の船大工、
母がペリリュー島の酋長の娘という日系2世。
シゲオさんは両親が仙台市からパラオに移住した後に生まれた日本人だ。
それぞれ「沖山豊美」「庄子茂夫」の日本名を持っているが、
慰霊碑を守ってきたのはペリリューの人間としてだったという。

慰霊碑の建立は現地の人々の協力がなければ実現しなかった。
戦友や遺族らが当時の酋長から共同墓苑として土地を借り受け、
建てられたのが「みたま」。今では取り囲むように、
遺族会や戦友・遺族個人など50基以上の碑が立ち並ぶ。

トヨミさんが平成13年、シゲオさんが20年に死去した後も、
息子で現酋長のイサオ・シゲオさん(76)が思いを引き継ぎ、
集落の持ち回りで多くの島民が清掃などにかかわる。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.sankei.com/life/news/150406/lif1504060020-n1.html
2: ◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★ 2015/04/08(水) 15:18:54.06 ID:???

「トヨミさん、シゲオさん夫妻がいなければ遺骨収集も進まなかった」。
同島守備隊の主力だった歩兵第二連隊の遺族・戦友会
「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」の事務局長、影山幸雄さん(70)はこう話す。

パラオは自然、文化財保護のルールが厳格で、遺骨でも原則として発掘禁止。
夫妻とイサオさんは、遺族らが調査活動をしやすいよう政府側と何度も交渉し、
「自ら険しい山に入り、ご遺骨を収集してくれることもあった」(影山さん)。

なぜ、これほど親切なのか。
先の大戦で米軍がペリリュー島に上陸する前、日本軍が
現地の人々を別の島に疎開させ、戦闘での死者が出なかったことに
感謝する現地の人々は多い。

ただ、影山さんは「補給も絶たれた疎開先の島では餓死者が出た」と指摘。
「複雑な感情を持つ人もいるはずだが、常に温かく迎えてくれる」と
墓守たちの思いの深さに感謝する。

夫妻が死去した際には「遺骨収集の支えを失う」と危惧する声もあったが、
イサオさんは「一人残らず返したい」と両親と同じ言葉を語り、
遺族らを安心させたという。

トヨミさんとシゲオさんは生前、
「ペ島の桜を讃え(たた)る詩」と題した日本語の詩を遺族らに贈っていた。

《戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく 
必ず我等(われら)は待ち望む 桜とともに皆さまを》

両陛下は9日、島南端に日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」で供花される。
「両陛下のお気持ちは国籍を問わず、すべての戦没者に向けられている」(側近)。
イサオさんも碑の前で両陛下を待ち受け、歓迎する。(ペリリュー島 今村義丈)

両陛下が戦後70年の節目にパラオを慰霊訪問される。
同国のペリリュー島は生還者の少なさから「忘れられた島」とも呼ばれたが、
遺族や戦友ら関係者は大切な人を忘れず、
70年を過ごしてきた。その思いをたどる。

3: 名無しさん@13周年 2015/04/08(水) 15:24:16.02 ID:q9OlXYrwN

勲章出したれよ


引用元:【「忘れえぬ島」パラオ~遺族・戦友の戦後70年】
ペリリューの人間として慰霊引き継ぐ「墓守」 碑建立40年「きれいなまま」