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1: 名無し三等兵 02/06/27 19:43 ID:???

>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
初代スレ756氏

未だ見ぬ誰かの為に、その尊い命を捧げた英霊達に捧ぐ
4: 名無し三等兵 02/06/27 19:55 ID:???

前スレ103

「自衛隊に誇りを 志方俊之著」小学館より

「最近でも、埼玉県の入間基地の近くで
航空自衛隊のジェット機が河原に墜落した事がある。 
あの飛行機を操縦していたパイロットは、
あの後二階級特進して国から表彰をもらっている。 
というのも、彼はそれまで三〇〇〇時間も飛行時間があるベテランパイロットで、 
自分が助かろうと思えばいくらでも助かる事が出来たにもかかわらず、 
飛行機の墜落で絶対に一般人を傷つけてはいけないと
安全な河原まで飛行機を飛ばし続けたのである。 
そのため、飛行機の高度が低くなりすぎ、脱出できずに亡くなった。 
つまり、彼は一般人を巻き添えにしないために、自らの命を犠牲にしたのだ。」

5: 名無し三等兵 02/06/27 19:56 ID:???

前スレ4

昭和19年、マレー半島ペナンに司令部を置く
高須四郎中将麾下の南西方面艦隊は、インド洋に於いて
通商破壊戦を立案し、左近允尚正少将を司令官とする
重巡青葉以下の第16戦隊に出動を命じた。

3月9日、臨時に第16戦隊に派遣された重巡「利根」が、
豪州から肉、小麦などの食料を満載してインドへ向かう
英国商船ビハール号を発見、停船を命じたが、
逃走を企てたので砲撃して撃沈した。

その際、一旦救助した捕虜80名のうち65名を
利根艦上で処刑したと言う容疑で、左近允中将と、
当時の利根艦長黛大佐が香港法廷で戦犯として裁かれ、
左近允中将は絞首刑、黛大佐は懲役7年に処せられた。

その左近允中将は昭和23年1月21日、
「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」
と言うすさまじい辞世を残して刑場の露と消えた。
遺骨はもとより遺品も帰らなかったという。

20年後、香港をインドネシアに赴任する防衛駐在官が訪れた。
香港領事が観光案内をしようとするが、スタンレー刑務所の
死刑囚監房と絞首台を一目見たいという。
その人こそ、左近允中将の一人生き残った息子、
尚敏二佐であった。

領事は意気に打たれて、様々な策を弄し、
法務官と言うことにして、その刑務所と
内部の死刑囚監房、絞首台の見学を認めさせた。
彼は絞首台を見学した後、所長と喋っている間に、
左近允二佐を絞首台に戻し、霊に手を合わすように配慮までした。

左近允二佐は思いを遂げることが出来、
感無量であったが、ゲートで所長に別れを告げたとき、
所長の一言に驚愕し、感動した。
「ミスター・サコンジョウ、お別れのお祈り、十分為さいましたか?
 ご満足頂けましたか?」 
彼は騙されたふりをして、
左近允二佐の鎮魂の手伝いをしてくれたのであった。

6: 名無し三等兵 02/06/27 19:58 ID:???

前スレ17-18

日本海軍は北洋警備-北洋漁業保護の為に、
最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊
(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を
毎シーズン派遣しておりました

國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、
我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、
日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました
だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、
必要に応じ、戦隊若くは艦隊を神速に
派遣することも行はれたやうです

父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました
生きて居られればゆうに百歳超えませう
明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、
戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました
 
この御仁が、大正の末か昭和の初め、
蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です
氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に
謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、
抑留されました此処までは今日と同じです

取調べは惨たらしいもので、
生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうですありもせぬ
犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、
再び鐵格子の中から引き出されました
 
いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、
何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、
捜査は打切り、無罪放免
 
露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか
解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました
天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、
海側の眺望が開けているものです、半信半疑の儘、
ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました
その瞬間、何故、助かったかが判りました

沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、
旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、
その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
 
陛下の赤子にかすり傷だに負はせなば
ウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、
ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
 
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
皆、感泣しました
鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥

ひうらさんは無事、日本に帰りました
取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、
大國相手の戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた
祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、
三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、
四半世紀ほど前に大往生を遂げられました
 
勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、
靴底だけ張替へ張替へして生涯穿き続けました
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」

2: 名無し三等兵 02/06/27 19:46 ID:???

突然なのでネタが間に合わず第四章スレの426をご紹介する
何度読んでも泣けます

平成14年の四月三日、見なれない民族衣装を纏って
靖国神社に参拝する一行があった。
一行の先頭には「高砂挺身報国隊」と
右から左へ記された日の丸の旗があった。

彼らは当時高砂族と呼ばれた台湾先住民族で、靖国神社に奉られている
戦友や父・兄に会いに遥々やって来たのだ。 

高砂義勇隊の戦士達は勇敢にして純真、そして責任感が強かったという。
ジャングルでは方向感覚抜群で聴力に優れ、夜目も利く。
潜入攻撃はお手のものだったらしい。最後の皇軍兵士こと
中村輝夫一等兵(スニヨン氏)という存在もあった。
 
一行の一人、回天特攻隊の生き残り、日本名古田栄一氏はこう話す。
「なぁ~に 回天10隻もあれば、アメリカの空母もやってみせますよ。
私ね、ただ一つだけ・・・靖国神社に入ることが出来なかった事、
其れが残念でなりません。
今からでも、私が死んだら靖国神社に入れますか?」

真剣な眼差しで問い掛ける氏の目には泪が溢れていた。
「太平洋には私の戦友が眠っとるんです。
私が死んだら遺灰を海にまいて欲しい。私は海の男だからね。
けれど魂だけは、靖国神社に・・・。」
声を詰まらせた氏はもはや其れ以上を言葉に出来ず
こみ上げる泪を腕で拭うのみ・・・・・。 

戦後は日本国籍を持たない彼ら元皇軍に、日本政府は冷たい。 
軍人恩給がつかない事は、反日運動の材料とされる事もある。
   ・・・・・そんなことはどうでも良い。 
俺は、彼らを最敬礼で迎え入れる事が出来ない「日本の社会」を恥じる。 

うちはじーちゃんがビルマでくたばってるんよ。
だからなのか俺の親は
「首相が靖国へ参拝するのはあたりまえや。」とノタマウ。
其れが健全なのかどうかは知らないが、俺は決して恥じては居ない。