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3: 名も無き国民の声 2017/11/21(火) 22:40:13.16 ID:vhZGyEEl0
 

第六潜水艇の遭難
https://ja.wikipedia.org/wiki/%
E7%AC%AC%E5%AD%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%87

1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は安全上の配慮から禁止されていた
ガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。
この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、
原理としては現代のシュノーケルと同様であった。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に
艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で
閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。佐久間大尉は母船「歴山丸」との申し合わせを
無視しがちで、第六潜水艇は日ごろから申し合わせよりも長時間の
潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。

また、母艦の見張り員は、異常と報告して実際に異常がなかった場合、
潜水艇長の佐久間大尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、とも述べており、
調査委員会はこの見張り員の責任を認めつつも、同情すべき点が多いとして
処分していない。異常に気がついた後、歴山丸は呉在泊の艦船に遭難を報告。
救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。

佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。
残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところは
ガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。
歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、
また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった[2]。

歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が
過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を
招いたのだと述べている。また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、
シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、
実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、
記録上のミスなのかは不明。
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