国家総動員報

2ちゃんねるの軍事関係のスレをまとめています。 その他、大日本帝国時代を懐古する様なスレもまとめています。 過激ではなく穏やかに保守の思想を貫きます。

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貴重資料

京都大学の“原爆研究”戦中のノート3冊発見 表紙には題名と皇紀で「2604年」と記される

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1: 孤高の旅人 ★ 2015/08/04(火) 22:02:58.29 ID:???*.net

京大の原爆研究、戦中の3冊発見…米軍押収免れ

太平洋戦争中、京都帝国大(現京都大)で
原爆開発を担当した研究者のノートなどが、
京都大放射性同位元素総合センターで見つかった。

京都帝国大の原爆開発に関する資料は終戦直後に米軍に押収されており、
戦時中の日本の原爆研究を知る上で貴重な新資料だ。

ノートは、清水栄・京都大名誉教授(2003年に死去)のもので、計3冊。
その中に様々な資料がはさまれている。同センター分館に保管されていたのを、
今年5月に訪れた政池まさいけ明・京都大名誉教授(80)(素粒子物理学)が確認した。
ノートの表紙には、「Ultracentrifuges(超遠心分離器)」と題名が書かれ、
皇紀で「2604年」と記されている。1944年10~11月に使われたノートとみられる。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.yomiuri.co.jp/science/20150804-OYT1T50086.html
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“幻の国産原爆”京都大学ウラン濃縮装置「完成 昭和20(1945)年8月19日」

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1: @Sunset Shimmer ★ 2015/07/26(日) 05:15:46.14 ID:woLL8I5R*.net

戦時中に旧日本海軍から原爆の開発を依頼された
京都帝国大(現京都大)の荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授が
ウラン濃縮の研究に使う計画だった遠心分離機の新たな図面が25日までに見つかった。

設計を委託された企業が作製した図面から、
完成は終戦4日後の予定だった可能性があることが判明。
記録がほとんどない日本の原爆開発の一端を裏付ける貴重な資料として注目される。

見つかったのは、遠心分離機を独自に設計した荒勝研究室と、
設計を委託された東京計器製作所(現東京計器)の図面計2点。
核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(素粒子物理学)が先月、
荒勝研で遠心分離機を研究した清水栄京大名誉教授の遺品の中にあるのを確認した。

荒勝研の図面は昭和20年3月に作製。
「空気タービン式超遠心分離装置」と記されており、圧縮空気を使うことや装置の構造、
材質などが方眼紙に手書きで詳しく書かれている。

東京計器の図面には「完成 昭和20年8月19日」との記載がある。
同社の遠心分離機は製造中に空襲で失われたとされている。 

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.sankei.com/life/news/150726/lif1507260018-n1.html
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日本軍史上初“玉砕”をしたアッツ島…守備隊の雄姿が写真に残されていた(画像あり)

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1: @Sunset Shimmer ★ 2015/07/12(日) 08:31:36.14 ID:s6TrsY+h*.net

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※米軍の攻撃によって破壊された兵舎を片づける守備隊の兵士たち

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※守備隊の日本兵たち。アルバムには、
左から「岩井少尉」「氏家中尉」「沼田大尉」「小林中尉」「山本大尉」と注釈がある。

太平洋戦争で1943年(昭和18年)5月、日本軍が「玉砕」したアッツ島
(米アリューシャン列島)の米軍上陸直前の様子を撮影した写真が残っていた。

戦闘が始まる前に日本に帰還した元大尉の遺族が保管していた。
最後まで戦って潔く散るとの意味の「玉砕」は、この戦闘で初めて使われた。
写真には日本の守備隊の姿が写っており、
この遺族は「多くの関係者に見てもらいたい」と話している。

写真は、飛行場建設の調査のため、43年4~5月、技術者として島に滞在した
元陸軍大尉の山口次雄さん(1993年に82歳で死去)がその間に撮影した。
「昭和十八年五月 アッツ島」と題したアルバムには、
雪に覆われた島内を視察する守備隊長の山崎保代(やすよ)大佐や、
空襲などを受けて損壊した兵舎を片づける兵士らの姿が写った
約70枚が貼りつけられている。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150711-OYT1T50062.html
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<貴重資料>ジョン万次郎の未公開写真か スーツ姿、米図書館で発見(画像あり)

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1: Hikaru ★ 2015/04/24(金) 08:16:42.20 ID:???*.net

1841年、遭難中を米捕鯨船に救助され、日本人として
初めて米国に移り住んだジョン万次郎(中浜万次郎)とみられる未公開写真が
米東部マサチューセッツ州のニューベッドフォード自由公共図書館の
保管資料から見つかったことが23日、分かった。

万次郎とみられる男性は、三つぞろえのスーツで帽子を手に持ち、
白髪、あごひげの白人男性と一緒。日本帰国後の70年に
捕鯨船のホイットフィールド船長宅を再訪し、
船長ら知り合いと再会しており、そのうちの誰かと写真を撮った可能性がある。

万次郎の現存写真は少なく、特に船長と一緒の写真は確認されていない。
万次郎を通じた日米交流団体幹部の北代淳二さんは
「推測の域を出ないが、顔の特徴から万次郎とみている。重要な史料だ」と話している。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO86080280U5A420C1000000/
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李香蘭の未発表曲2曲の音源発見 古賀政男作曲、漂う厭戦感…戦後70年を経た発見、専門家「奇跡」と評価

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1: Hi everyone! ★@\(^o^)/ 2015/04/11(土) 20:47:59.17 ID:???*.net
 
戦中は時代の波に左右された俳優・歌手、
戦後は政治家としても活躍した山口淑子(よしこ)さん(1920~2014)が
戦時中の1944年、李香蘭(りこうらん)時代に録音したとみられる
2曲の未発表音源が見つかった。

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【画像】兵庫・西宮で開催された「大東亜建設博覧会」で
「父よあなたは強かった」を歌う李香蘭時代の山口淑子さん。
この催しについては1939年4月13日付大阪朝日新聞朝刊で
「素晴らしい満映の花 唄のうまい李香蘭」などと報じられた

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「雲のふるさと」「月のしづく」で、いずれも作詩は大木惇夫(あつお)、
作曲は昭和を代表する作曲家の古賀政男。発売されなかった理由は不明だが、
戦後70年を経て埋もれていた戦時歌謡が発見され、専門家は「奇跡的だ」と評価する。

山口さんが昨年9月に亡くなったのを受け、日本コロムビア社が音源を調査。
古賀政男音楽文化振興財団(東京都渋谷区)が所有する
古賀の遺品のSP盤を整理する過程で、確認した。

SP試聴盤の裏表に1曲ずつ収録されていた。
盤中央には、各曲名と「李香蘭」の文字が書かれている。
包装紙には「未発表」「S19」などの文字が見える。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.asahi.com/articles/ASH4C0J52H4BUCLV019.html
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<貴重資料>谷崎潤一郎の創作ノート見つかる「細雪」「春琴抄」など

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1: ゆでたてのたまご ★ 2015/04/02(木) 16:31:16.74 ID:???*.net

日本の近代文学を代表する作家、谷崎潤一郎の
「細雪」や「春琴抄」の創作ノートがあることが分かりました。
戦争で焼失したと考えられていましたが、谷崎が空襲を避けようと
カメラで撮影したものが残されていたとみられ、
専門家は「大変貴重な超一級の資料だ」と話しています。

これは、谷崎潤一郎の全集を出している
中央公論新社が記者会見して明らかにしました。
それによりますと、資料は、谷崎が「春琴抄」や「細雪」を構想していた
昭和8年から昭和13年にかけて書いたとみられる255枚に
上る創作ノートで、カメラで撮影されたものが印画紙として残されていたということです。

このうち、谷崎が妻の松子の4姉妹をモデルにして
昭和17年から執筆した「細雪」については、作品名を、
当初、「三寒四温」にしていましたが、創作の過程で作品名を
「細雪」と思い付いて変更したことがうかがえます。

また、4姉妹の生活ぶりや会話など、
谷崎の身の回りのエピソードが詳細に記録され、
作品に取り入れられていることが分かります。

一方、目の見えない琴の師匠・春琴の物語「春琴抄」のノートには、
「春琴九才ノトキ失明ス」や、「十七才ノトキ妊娠」などと書かれていて、
人物やストーリーの設定が箇条書きで細かく書き込まれています。

「春琴抄」の創作ノートはこれまで存在が知られておらず、
「細雪」のノートは一部しか残っていなかったため、
昭和20年に兵庫県の家が空襲にあった際、
焼けてしまったと考えられていました。

しかし、谷崎の幼いときからの友人、笹沼源之助が、
ノートを1枚1枚写した印画紙を保管し続け、遺族が
「研究に役立ててほしい」と出版社に託したということです。

撮影されたのは、太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年ごろとみられ、
谷崎文学を研究している早稲田大学の千葉俊二教授は
「谷崎が空襲でノートが焼けるのを恐れ、写しを友人に預けていたのではないか。
戦争が終わったあとも生き残って小説家としてやっていくという強い意志がうかがえ、
近代文学研究において大変貴重な超一級の資料だ」と話しています。

■「春琴抄」「細雪」とは

谷崎潤一郎の代表作の1つ、
「春琴抄」は、満州事変の2年後の昭和8年に発表された作品です。
美しく、目の見えない琴の師匠、春琴とその弟子の佐助が登場し、
顔にやけどを負った春琴を思う佐助が、みずからの両目を針で刺し、
愛する人に一生をささげることを誓うという、谷崎ならではの愛の形を描いています。

一方、「細雪」は、太平洋戦争まっただ中の昭和18年に
雑誌で連載が始まった小説で、関西の旧家で美しい
4人の姉妹が織りなす日々をつづっています。四季折々の行事や、
上方文化の華やかな世界を描きましたが、作品の華やかな内容が
「時局に合わない」として連載が中止になりました。

のちに、谷崎は当時の心境を
「自由な創作活動が、ある権威によって強制的に封ぜられ、
これを是認しないまでも深く怪しみもしないという一般の風潮が、
強く私を圧迫した」と記しています。

終戦の翌年に刊行された「細雪」はベストセラーとなり、
その後、たびたび、映画化やテレビドラマ化されるなど、
日本文学を代表する作品の1つとなっています。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150402/k10010036351000.html
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<貴重資料>“明治維新の原動力”吉田松陰の自筆史料68点発見 『吉田松陰全集』未掲載の貴重なものも

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1: すらいむ ★ 2015/03/24(火) 19:29:44.40 ID:???*.net

幕末の思想家、吉田松陰の手紙やメモなど、
未発表のものを含む自筆の史料68点が
山口県萩市で見つかり、松陰の活動や人柄を知る
貴重な史料として注目されます。

萩博物館によりますと、萩市に住む女性からおととし以降、
市に託されたおよそ1500点の史料の中に、
吉田松陰が書いたとみられる手紙などが見つかったということです。

このため明治維新史が専門で
広島大学大学院の三宅紹宣教授に詳しい調査を依頼したところ、
筆跡などから手紙やメモなど68点が松陰の自筆のものだと分かったということです。

このうち、「写本録」は松陰みずからが松下村塾で写本をして
資金を集めていたことが分かる貴重な資料です。

また、松陰らが萩藩主を通じて朝廷を動かし、
尊皇攘夷を実行させる計画を書いた草稿は、
紙の余白にまで文字が書き込まれていて、紙を大切にする松陰の人柄や、
尊皇攘夷に向けて具体策を練っていた様子がうかがえます。

萩博物館によりますと、女性の先祖が松陰の兄の杉民治と交流があり、
杉家が保管していた松陰の史料が今回、見つかったとみられるということです。

萩博物館の樋口尚樹学芸専門監は
「68点もの大量の吉田松陰の史料が出てきたことに大変驚いている。
多くは『吉田松陰全集』にも載ってなく、非常に貴重なものだと思う」と話しています。

全文は下記のアドレスへどうぞ(動画あり)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150324/k10010026421000.html
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<貴重資料>取材記者としての意外な一面 三島由紀夫の東京五輪取材ノート、全集未収録の全58ページ発見(画像あり)

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1: すらいむ ★ 2015/03/23(月) 16:22:56.42 ID:???*.net

昭和期を代表する作家の三島由紀夫(1925~70年)が、
64年の東京五輪を取材したノートが見つかり、
23日までに発売された雑誌に内容が掲載された。
選手のリアルな表情が生き生きと具体的に描かれ、
三島の取材記者としての意外な一面がうかがえる。

画像:作家の三島由紀夫が東京五輪を取材したノート
(「三島由紀夫研究〔15〕」より)

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三島は朝日、毎日新聞などの特派記者として五輪を取材。
寄稿記事は全集にも収録されたが、ノートの全体像は分かっていなかった。

ノートには10月10日の開会式から各競技の模様、
同24日の閉会式までを58ページにわたり記録。
重量挙げで金メダルを獲得した三宅義信選手については
「上げる前に、両手をつかへ天を仰ぎ、口をモグくの字点)させる。
更に上を仰ぎアウッと叫ぶ」と生々しく描写されている。

三島由紀夫文学館を運営する山梨県山中湖村が
遺族より入手した資料から発見。佐藤秀明近畿大教授らが確認を進め、
全文を研究誌「三島由紀夫研究(15)」に掲載した。実物は24日から同館で展示する。

文芸評論家の松本徹同館館長は
「三島に国粋主義的な態度が現れていた時期だが、それが全く出てこない。
日本を代表する作家として、国際的視野に立ち
表現しようとした姿勢がうかがえる」と話している。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2015032300546
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陸軍省戦争経済研究班(通称 秋丸機関)「米英強大」詳細に分析“開戦回避”提言できず…

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1: Hola! ★ 2015/03/12(木) 01:53:10.07 ID:???*.net

日米開戦前に設立された、敵国の経済的な弱点を探る
情報機関「陸軍省戦争経済研究班」(通称、秋丸機関)がまとめた
機密報告書「英米合作経済抗戦力調査」のうち、所在が不明だった
第二巻「其二(そのに)」が見つかった。

英米両国の強大さを指摘するデータを示す
一方で開戦回避の提言はなく、研究に参加した研究者たちが
軍部の意向を無視できなかった事情がうかがえる。 

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陸軍の秋丸次朗主計中佐が率いた同機関の活動は、
当時の日本の海外経済調査として最大規模。
「其二」はA5判三百二十二ページの分量で表紙に「極秘」との印がある。

英米両国を中心に各国の経済情報を収集・分析し、
税金や国債発行で調達できる軍事費も推計。
「英米の造船能力以上の船を撃沈すれば勝算がある」と戦略も提言した
「其一」(百四ページ)の裏付け情報となっている。

牧野邦昭・摂南大経済学部准教授(日本経済思想史)が東京の古書店で発見、
今年二月、東大経済学図書館に寄贈した。

米国について「石油埋蔵量が世界の70%を占め、
資源を有せざる諸国に対する経済戦の武器となる」として
石油輸出禁止が有力な手段となる可能性を分析。

「日本の輸出生糸の86%を英米が消費し、
輸入禁止で日本に打撃を与えられる」とも明記した。
当時の日本は米英に生糸を輸出して得た外貨で、
原油の七割超を米国から買う米英依存型の経済構造になっており、
米英を敵に回す戦争の困難さを予見する内容。
実際に米国のその後の石油禁輸で日本は窮地に陥った。

しかしその一方で、日本の同盟国であるドイツと戦う英国が
石油を輸入に頼っている点を挙げて「米国の石油を
英国に輸送しなければならず輸送力が問題」と指摘。
米英の船の使用年数や船員の熟練度を調べ「船舶不足が弱点」とした。

数々の記述から、米英との戦争は圧倒的に不利であることを示唆しているが、
明確に「勝算がない」とは言及していない。

報告書は「其一」と合わせ一九四一年夏、陸軍上層部に報告されたとみられる。
日本は同年七月末、米国が態度を硬化させ年末の日米開戦のきっかけとなった
「南部仏印進駐」(仏領インドシナ南部への侵攻)に踏み切っており、

「軍が(開戦を否定しない)報告書を都合良く解釈し
戦線拡大を後押しした可能性がある」(牧野准教授)との見方もある。

<秋丸機関> 
1940年1月、陸軍が経済面から軍事戦略を練るため設立。
当時トップレベルの経済学者だった有沢弘巳氏(後の東大名誉教授)、
中山伊知郎氏(東京商大教授・後に一橋大名誉教授)や
企業人ら100人程度が動員され米英、ドイツなど各班に分かれ分析。
42年秋ごろ解散したもよう。「英米合作経済抗戦力調査」は戦後復興でも
政府の経済顧問を務めた有沢氏が中心でまとめたとみられる。
軍指示で焼却されたといわれていたが、
「其一」が有沢氏が残した蔵書から91年に見つかった。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015030902000139.html
関連記事
軍に背けず学者苦悩 戦力の差データで暗示
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2015030902000133.html
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昭和天皇の教育に影響 旧帝大総長・山川健次郎氏の日記写本を発見 「昭和天皇実録」にも引用されていない貴重資料

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1: Twilight Sparkle ★@\(^o^)/ 2014/12/06(土) 07:08:28.98 ID:???0.net

東京帝国大の総長を計12年近く務め、昭和天皇の教育にも深く関わった
山川健次郎(1854~1931年)の日記の写本が見つかった。
原本は所在不明で、今年9月、宮内庁が公表した「昭和天皇実録」も引用していない。
専門家は「戦前の教育行政を知る上で貴重な史料」と注目している。

写本は原稿用紙約300枚にペン書きで、
1913~15年、19~20年の4冊。2012年夏、
中沢俊輔・秋田大講師(日本政治外交史)が、所蔵する秋田県公文書館で発見し、
小宮京・青山学院大准教授(日本現代史)と解読してきた。
今月下旬、芙蓉書房出版が翻刻、刊行する。

山川の専門は物理学。「東宮(皇太子)御学問所評議員」として、
のちの昭和天皇の教育方針決定にかかわった。写本には1915年2月3日、
「東宮殿下益々御機嫌よき由、但し御近眼の模様」などとある。

また19年9月5日の会議で、20年度の1学期に、
当初予定がなかった理化学と数学を週1時間ずつ入れることを決めたことも分かった。

全文は下記のアドレスへどうぞ
http://mainichi.jp/select/news/20141204k0000e040155000c.html

2: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/12/06(土) 08:12:26.40 ID:F67rf47C0.net

毎日じゃどうせどっかの方向に持って行くんだろ

3: 名無しさん@0新周年@\(^o^)/ 2014/12/06(土) 13:47:39.55 ID:cldOQZ4A0.net

>>2

俺もそう思う
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無慈悲な鉄槌を加える!
管理人:左大臣                      国民全てにお報せしたい情報を    記事にしております          非常時には国家総動員法に限る 相互リンク募集中です
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