太平洋戦争中に学徒出陣し、捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして
横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の獄中の手記などおよそ500点が見つかり、
専門家は、判決を待つ若者の心境を伝える貴重な資料だとしています。
資料は、終戦直前の昭和20年8月10日ごろ、
福岡市郊外で捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして、
横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた
元学徒の大槻隆さんが残した手記など、およそ500点です。
遺族が兵庫県内の自宅で見つけ、大槻さんの母校の立命館大学に寄贈しました。
学徒出陣のあと、福岡の陸軍司令部に配属された大槻さんは、
戦後、収監された巣鴨プリズンで多くの歌を手記に残し、
「あきらめど なほ口惜しき我なれや 命令なくばかくなきものを」など、
上官の命令に従ったことを悔やむ気持ちをつづっています。
また、ほかの戦犯に死刑が言い渡される中、法廷で判決を待つ心境もつづられ、
「いささかの なごみも消えて下腹の 冷えゆく覚ゆ死刑宣告」など、
死の恐怖に直面し、葛藤する胸のうちが記されています。
大槻さんは重労働30年となりますが、判決の7年後に仮出所し、およそ30年間、
ふるさとの高校で教員を務め、平成9年に75歳で亡くなりました。
横浜裁判に詳しい間部俊明弁護士は「被告席に座らされた若者の
偽らざる声が伝わってくる内容で、非常に貴重な資料だ」と話しています。
「戦争は正しい判断ができないようにする」
大槻隆さんの長女で、手記を寄贈した番匠ますみさん(51)は、
父は家族の前で戦争の話をほとんどしなかったものの、
小学生の頃、問わず語りに、「兵隊だったときにアメリカ人の捕虜を
撃たなければいけないことがあり、撃ちたくなかったが、しかたがなく撃った。
上からの命令は絶対で、逆らえる状況ではなかった。
戦争は人が正しい判断をできないようにしてしまうと言っていた」と話しています。
また、BC級戦犯として裁かれたときのことについて、
「死刑になると思っていたので怖かったと言っていた」と話しています。
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